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マンスーラの戦い (1250年) : ミニ英和和英辞書
マンスーラの戦い (1250年)[まんすーらのたたかい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦い : [たたかい]
 【名詞】 1. battle 2. fight 3. struggle 4. conflict 
: [ねん, とし]
  1. (n-adv,n) year 2. age 

マンスーラの戦い (1250年) : ウィキペディア日本語版
マンスーラの戦い (1250年)[まんすーらのたたかい]

マンスーラの戦いは、1250年2月8日から2月11日にかけてエジプトマンスーラで起きた、十字軍イスラーム勢力の戦闘である。フランス王ルイ9世率いる第7回十字軍と、エジプトのアイユーブ朝の将軍ファフルッディーン・ユースフ、マムルーク(軍人奴隷)のバイバルス・アル=ブンドクダーリーが交戦した。
== 背景 ==
戦闘の開始に遡る1244年、聖地エルサレムの領有者ははキリスト教勢力からイスラーム勢力へと移り変わった。十字軍勢力はエジプトをイスラーム勢力の要塞・武器庫と見なし〔Toynbee, ''Mankind and mother earth''、447頁〕、エルサレム奪還の障害と考えていた。1245年第1リヨン公会議において、ローマ教皇インノケンティウス4世は、ルイ9世が準備を進めていたエジプトの攻略とエルサレムの奪還を目的とする十字軍への全面的な協力を約束した。また、第1リヨン公会議においてはヨーロッパに勢力を拡大するモンゴル帝国への対策も協議され、モンゴルの君主に改宗を説く使者の派遣が決定された〔ドーソン『モンゴル帝国史』2巻、204頁〕。対イスラーム諸国の同盟を提案し〔Runciman, ''Steven A history of the Crusades'' 3, 260-263頁〕、東西からのイスラーム勢力の挟撃を試みた。1246年に教皇が派遣したプラノ・カルピニのジョンとベネディクトはモンゴル帝国のハーン(君主)・グユクに謁見するが、グユクはキリスト教世界からの使者に対して、教皇が直接モンゴルの宮廷に出頭し、臣従を誓うよう返答した〔ドーソン『モンゴル帝国史』2巻、238,242-244頁〕。
十字軍を乗せた艦隊はエーグ=モルトマルセイユから出航し、1248年秋にキプロス島に到着する。キプロス島においてルイ9世はモンゴル帝国の使者と面会し、返礼の使者をモンゴルとイランに派遣した〔牟田口『物語中東の歴史 オリエント5000年の光芒』、190頁〕。そして、1249年にルイ9世の弟であるアンジュー伯シャルル(シャルル・ダンジュー)とアルトワ伯ロベールに率いられてエジプトに向かった。艦隊はエジプトの領海に進入し、1249年6月にダミエッタ(ディムヤート)に上陸した。ダミエッタに陣を構えていた将軍ファフルッディーン・ユースフの守備隊が退却すると、恐怖で混乱したダミエッタの住民は町から逃げ出し、上陸の翌日〔橋口『十字軍騎士団』、235-237頁〕にルイ9世はダミエッタを占領した。ダミエッタ陥落の報告が届くと、カイロから戒厳令が発せられ、エジプト全土が臨戦態勢に入った〔Al-Maqrizi, p. 446/vol. 1, p. 456/vol. 1.〕〔Ibn Taghri, ''al-Nujum al-Zahirah Fi Milook Misr wa al-Qahirah'', 102-273頁/ vol. 6.〕。
ダミエッタ占領後、十字軍側ではナイル川の増水期を間近に控えた状態で進軍を続けるか、待機するかが議論された〔。アイユーブ朝のスルターン(君主)・サーリフは十字軍にダミエッタの返還を条件としてエルサレムの譲渡を申し出たが、十字軍を主導していたフランスの王侯は提案を一蹴し、カイロへの進軍を決定した〔〔牟田口『物語中東の歴史 オリエント5000年の光芒』、159頁〕。ナイルの増水期をやり過ごすことが決議され、後続のポワトゥー伯が十字軍に合流した。ナイルの減水期を待ったルイ9世は、11月下旬にカイロに向けて進軍を開始する〔。
一方、サーリフは病を押して出陣し、ダミエッタの南西70kmの地点に位置するマンスーラに布陣した。だが、11月22日〔牟田口『物語中東の歴史 オリエント5000年の光芒』、193頁〕/23日〔大原与一郎『エジプト マムルーク王朝』(近藤出版社, 1976年10月)、9頁〕にサーリフは陣没する。サーリフの妻シャジャル・アッ=ドゥッルは軍の士気の低下を恐れて夫の死を隠し、マンスーラに設置された臨時の宮殿には亡くなったサーリフの食事が用意され〔牟田口『物語中東の歴史 オリエント5000年の光芒』、194頁〕、サーリフの筆跡をまねて書かれた偽の命令書が発行された〔佐藤『イスラーム世界の興隆』、286頁〕。シャジャルはバフリー・マムルーク(サーリフが養成していたマムルーク軍団)の長ファリッスディーン・アクターイを北イラクのカイファー()に送り、カイファーに駐屯していた継子のトゥーラーン・シャーを呼び戻させた〔。アクターイの留守の間、代理としてバイバルスがマムルーク軍団の指揮を執った〔佐藤『イスラーム世界の興隆』、298頁〕。また、十字軍に対してイスラーム側はゲリラ戦術を展開し、多くの捕虜がカイロに送られた〔Al-Maqrizi, p. 447/vol. 1.〕。
しかし、サーリフが病没した情報はすでに十字軍側に知れ渡っていた〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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